2015/05/24

生きる力

故郷の三戸町の雪化粧

ニュースでは世界経済や日本経済の停滞が話題になっている。

所得格差は世界中の至る所で顕著になり、日本でも貧困層の拡大、高学歴フリーター、自殺など、国全体が貧困化しているようである。

政府にも金がない。明に暗に何かと保護されてきた日本の企業にとっては厳しい時代となるだろう。

国から組織への保護がなくなり、組織から個人への保護がなくなる。

ハワイ州政府から生活保護を受けているハワイアンが働かずに生活している状況を見るにつけ、保護されている者はいづれ必ず淘汰されると思わざるをえない。

国民ひとりひとりに生きる力がないのに、国に生きる力が出てくるはずがない。


小学校時代の恩師に前田先生という人がいた。

ある日の授業で前田先生は宮沢賢治と石川啄木を比較して、自立して生きることについて話してくれた。

日本経済が世界を席巻し、文科省が「生きる力」などと声高に唱えることもなかった時代の話である。


今年はじめに日本へ帰ったときに、地元の友達と酒を飲んだ。地元でもいろいろと簡単にはいかないようだった。

私は前田先生の話を覚えているかと聞いて、「俺たちは三戸小学校の前田先生のクラスを出てる。スタンフォードとか精華大学出身の連中に
俺たちが負けるわけがないだろ。」と励ましてきた。

先生はだいぶ前に亡くなられたが、彼の授業は数十年を経て今でも時々私たちの生活を支えてくれている。
(以前のブログから転載)

2015/05/23

いじめについての思い出

実家の猫。ボス猫として毎日近所のパトロールに余念がない。

私が小学校6年生のときに中川君という子がクラスに転入してきた。

いかにも都会風の男の子で、自分のことを「ぼく」といい、田んぼの広がる風景には異質の存在だった。

ほどなくその子はいじめられた。

前田先生は、私を含めた3人の生徒を呼んで、中川君を守るように頼んだ。

私は何もしなかった。もう一人も何もしなかった。

しかし、和彦だけは違った。

和彦は、中川君と一緒に行動を共にするようになり、いじめっ子たちは中川君に近づかなくなった。

しばらくして、子供たちの興味は中川君から普段の遊びに戻ったと思う。


いまでも、和彦が中川君と一緒に話している姿が目に浮かぶ。

休み時間、教室の後ろ、廊下側の壁付近に二人で座って話をしていた。

和彦と目が合った。和彦は笑ってくれたが、私は目をそらすことしか出来なかった。


大人になって盆休みで帰省したときに和彦にあった。

和彦は土地の売買で羽振りがよかった。どこかにいい嫁がいないかと聞いていた。

当時の話になったとき、和彦は「あたりめーだ。俺のキンタマは、お前のよりでかいんだよ」と言って笑っていた。
(以前のブログから転載)

佐藤教授の思い出

ワイキキも暑い日が続く

日本で働いていた頃お世話になった先生が定年退職されていた。

その頃わたしは先生の一番弟子を自称していた。

実際には一番ではなかったし、今となっては一番出来の悪い弟子となってしまった。

先生は学者には珍しく世俗のバランス感覚もあり、やさしく、寛容な人であった。


私があるプロジェクトを任されていたときに、メンバーが大きな事故を起こしたことがあった。そのとき、私が文科省まで報告書を提出する事態にまで発展した。

それまでたくさんの同僚がいろいろと協力なり、口出しなどをしていたのであるが、その事故を境にぱったりと誰も話しかけてこなくなった。「蜘蛛の子を散らすようにとはまさにこのことか」と思ったものである。

事故後もなんら態度を変えることなく後始末までサポートしてくれたのは、ただひとり佐藤先生だけであった。


アメリカに来る直前、佐藤先生のところへ挨拶にうかっがった。

先生は「あなたを一人前にするために日本は大金を使いました。どこに行ってもそれを忘れないようにしてください。」とおっしゃった。

先生のウェブサイトを見ると10年以上も前のひとつの論文がのっている。私と共著の論文である。

一番弟子だけがうだつが上がらず、本当に申し訳ない。

せめて人柄だけは先生に近づきたいと思う。
(以前のブログから転載)

ある賢い犬の思い出

ありし日の娘とラッキー

娘がニンテンドーのゲームで犬を飼っている。名前はラッキーという。

どうしてラッキーという名前なのかと聞いてみたところ、以前実家で母が飼っていたラッキーという名の犬にそっくりだというのである。実際にゲームの画面を見てみると確かに似ている。

ラッキーはとても賢い犬で、みんなから愛されていた。

人は二度死ぬという。一度目は、生命活動を停止したとき。二度目は、みんなから忘れ去られたとき。ラッキーは犬だが、なるほど確かにそうかも知れないと思った。
(以前のブログから転載)

ぜんぜん余裕

人もシステムも信頼性が大事
DFSギャラリアにあるオフィスで、ネットワーク・ケーブルをインストールをした。天井のパイプにケーブルを通したり、机の下にもぐって各端末をLANに接続した。

メイン・オフィスに戻り、メールを読み、さて帰ろうとした直後にグアム支店から電話が入った。

グアムの基幹システムに障害が発生したのである。東京にも連絡を取り、グアムのスタッフと協力して障害対応に取り組んだ。結局、すべての処理が完了したときには時計は深夜零時をまわっていた。

「そっち、遅い時間ですよね」とグアムのスタッフがすまなさそうに聞いてきた。日中の肉体労働に続いて、脳のフル回転が4時間。かなり疲れていたが「ぜんぜん余裕ですよ」と返し、何かあったら、いつでも私の携帯に連絡するように付け加えて受話器を置いた。

システム障害を復旧させた後は、仕上げとして、周囲の人々の沈んだ気持ちも復旧させる。どんなに疲れていても、それぐらいのキャパシティがなくては腹の据わった強いエンジニアはつとまらない。

家々が寝静まった帰り道は、少し肌寒い風が心地よかった。
(以前のブログから転載)